NEW見附の誕生を信じています。
高校を卒業してすぐに産元(セーターの卸問屋)に就職しました。
見附市内のニッターさんに製品を作ってもらって、取引先も多くありました。
ニッターさんとの関係は、お客とメーカーの関係というよりは、同じ見附で仕事をしている仲間という感じでした。
まあ、ほとんどのメーカーさんが、私よりはるかに年上でしたので、取引先の問屋の番頭というよりは、入りたての若いもんという感じでした。
客先から注文を取ってきて、メーカーさんに「これ、作ってもらいたいんですけど・・・・」とお願いすると、「こんげん面倒なのできねぇいや。もっと簡単にできる注文持ってこい!」と怒られて、「単価これでお願いします」というと「バカ言ってんじゃねぃや」とさらに怒られて、でも結局は作ってくれる優しい人たち・・・・・。
あのころ、見附市民のほとんどの人たちが繊維業界にかかわっていた。
縫製屋さん、セット屋さん、リンキング、衿ネーム付け、刺繍屋さん、ボタン付け、実に多くの人たちが見附の繊維産業を支えていました。
やがてバブルが崩壊し、海外の安い商品が入ってくると、我々問屋は、海外商品を主力にせざるを得なかった。
今まで見附市内に発注していた商品は、中国、韓国に発注せざるを得なかった。
やがて、市内のメーカーさんは売上が維持できなくなり、次々とつぶれていきました。
中には、自らの命を絶ってしまったメーカーさんの社長さんもおられました。
市内の商店街も、値段の安い大型スーパーに勝てなくなり、続々と店を閉めていきました。
もはや、見附市の景気は冷えきり、繊維の街ではなくなってしまいました。
私個人も少なからずその影響を受け、他にいろいろな条件が重なり、30年近く勤務した会社を辞めることになりました。
もう、あの活気ある見附も、今や別の町のように静かな町になってしまいました。
あのにぎわっていた商店街、各地であった神社の祭り、新田公園のさくらまつり、各町内が競って出し物を曳いた見附祭り、年末年始の初詣、2年参りの様子、そこここでしていた編み機の音・・・・。
まるで、一時の夢だったようにも感じられます。
しかし、私は、また別の形で見附市が活気を取り戻すと信じています。
いろいろな公共施設も充実してきています。
工業団地も多くの企業が進出しています。
さらに見附駅周辺の活性化プロジェクトも進行中。
商店街にも志ある方たちが出店し始めています。
また、あの時代の活気を、また別の新しい形で復活する見附を、見てみたい!
そのために私は、このNEW見附で、見附市の人たちが元気で、健康的に過ごせるようにがんばっていきたいと思います。