東洋医学における「怒り」の取り扱い説明書
人は自分をないがしろにされると怒りが湧く。
しかし、自分にとってはどうでもいいことでないがしろにされても、そんなに怒りは湧いてこない。
自分はこれが好きでこれに関しては詳しい、あるいは上手い、といった分野でないがしろにされると無性に腹が立つ。
もちろんすべてにおいて無視されたり、自分の存在自体をないがしろにされれば、猛烈に怒りがわく。
そして、なにげない人の言葉でカチンときて、殺人事件さえ起こす者もいる。
怒りとはそれほど大きなエネルギーなのだ。
もちろん、ちょっとした言葉で怒りが湧いて来ても、自分の中にため込んで我慢することもある。
あなたも、そのためのストレス発散法を持っているだろう。
しかし、あまりにもそれが重なってくると体に症状が出てくる。
全身の倦怠感、無気力、だるさ、肩甲骨が左右に落ちるので猫背になり、大胸筋の力が弱くなるので胸がふさがる。
息が苦しくなる。
怒りが毒素となって、肝臓で分解しきれずに全身をめぐる。
首が前に落ち、目が下からにらみ上げるような目つきになる。
いわゆる三白眼である。
東洋医学では、怒りは肝臓と関係する。
肝臓は解毒の作用で身体を浄化する。肝臓が弱れば、解毒が出来ずに全身をめぐる。
肌が黄色くなり、白目も黄ばみ、怒りっぽくもなる。つまり、怒りは肝臓を破壊する毒素となる。
一方で、怒りと肝臓は木のシンボルとなっている。木は土から養分を得て成長する。
土は、動植物が腐ってできたもので、その中には当然毒素も含まれる。
その毒素を栄養分として吸収すれば、木は成長する。しかし、その毒素を木が拒めば、木の成長はない。
木の中には土の毒素とともに栄養分を取り込み、自分を成長させる仕組みがある。
これは人体における肝臓と同じ働きであると古人は考えた。「木」=「肝臓」であると。
肝臓が弱ると怒りっぽくなるので、「肝臓」=「怒り」。
また、木は成長するものなので、「成長」=「怒り」ということもできる。
「怒り」と「成長」がどう結びつくのか?もう少し説明が必要かもしれない。
幕末の志士 坂本龍馬の言葉で「男子の怒りは私憤であってはいかん。公憤でなければならぬ」というものがある。
まさに明治維新は、国民の怒りによって行われたと言ってよい。
国民の怒りが日本を成長させた。
この例をとっても「怒り」と「成長」は結びつくものだと思う。国家を変えるといった大袈裟なことでなくても、個人の怒りが社会の怒りになったとき、社会と個人の成長につながる。
その社会とは、町内かもしれないし、学校かもしれないし、会社かもしれない。
規模は関係ない。
怒りはやり過ごせるほどのものならば、体の毒にはならない。
しかし、何回も同じ怒りをため込んでいくと、それは肝臓を弱らせる。
体中に毒素が溜まる。
しかし、なんで怒りが湧いてくるのか?冷静に考えて、これは自分だけではなく、まわりもそう思っているのではないかという考えに至ったならば、声を上げて仲間と話しあうべきだと思う。
そこで個人の中に毒として溜まっていた怒りが、仲間と共有された時、それが行動のエネルギーとなる。
その結果として何かが改善されたのなら、それは怒りのエネルギーが成長のエネルギーに転化したことになる。
たとえ、その怒りが自分だけの怒りだとしても、その怒りを成長のエネルギーに変えて、スキルを身に付けたり技術を磨いたり知識を身につけたりして、自分の存在をまわりがないがしろにできないくらいの実力を身に付ければ、これも怒りが成長のエネルギーに転化したことになる。
怒りを暴発させて、だれかを傷つけ、その場で気が晴れても、怒りは怒りを生み、際限もなく身体に毒素をため込む。
その毒素はまわりにもまき散らされてしまう。
しかし、自分の中の怒りを成長のエネルギーに転化できたなら、その恩恵はまわりにもおよび、感謝と信頼を得ることもできる。
人間である以上、怒りは当然のこととして湧き上がる。
怒りは身体にとって毒なので、できるだけ怒りが湧き上がらないようにしよう!というのは東洋医学の教えではない。
怒りはしっかりと認めてあげて、そのうえでそのエネルギーを成長につなげようというのが教えである。
怒り・悲しみ・悩み・恐れ・喜びの感情を活き活きと表現して生きるのが人間らしい生き方だと教えている。
泰然自若、いつも穏やか・・・・・これは人間のあるべき姿ではないと教えている。