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見附初!腰痛の痛みを解消するための接骨院『いしづき接骨院』

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悲しみとは何か?

「悲」という漢字の成り立ちを調べてみた。

非は人が背中を向け合っている形。

反発して去っていく。

下の心は心臓の形。

転じて心が引き離される、あるいは引きちぎられるような思い。

心の痛み、苦しみのこと。

私は、この解釈には疑問がある。

心が引きちぎられるのを表すのに、人と人が背を向けるというのは、なんだか遠回しな表現だと思う。

ひきちぎられるというよりは、人と人が背を向け合って「私はお前とは違う」と、理解しあえないという解釈ならどうだろう。

すなわちお互いに理解し合えない心。

これが「悲」という漢字の意味だと解釈したい。

仏教では、「悲」という字の意味をこう説いている。

人々に苦しみをともにする同感の心を持つということ。

それらの苦痛を取り除いてあげたいという心を持つこと。

私の解釈と真逆だ。

しかし、仏教は宗教なので、「悲という字」の解釈というよりは、「悲という教え」の解釈というふうにとらえれば、私の解釈にも矛盾はない。

私たちが悲しいと思うのは、たぶんだいたいの場合において、なんで私だけこんなめに会うんだろうとか、こんな苦しい思いをしているのは私だけで、まわりはもっとうまくやってるのに・・・・といったまわりとの比較も入っている。

しかし、仏陀はこう看破した。

「人生は苦である」と。

生老病死・・・人間である以上、これらの苦しみからは逃れられないと。

それでも、あの人はもっとうまくやっているとか、あの人は金持ちだから幸せだとか、成功者がうらやましいとか思う。

自分は悲しみを背負い、まわりは楽をしていると思いがちだ。

しかし、金持ちであろうが、成功者であろうが、生老病死の苦しみから逃れることはできない。

できない以上、不安も恐れもあるのが人間なのだ。

だれでも、人間である以上、悩み、苦しむのだ。

だから、仏教では、お互いに苦しみを理解しあいなさい、その苦しみを取り除いてあげれるように力を貸しなさいと、教えている。

私だけが・・・と思えば、周りの痛み苦しみも理解しようという余裕がない。

しかし、同じ周りの人たちも同じ人間。

苦しみを抱えた人間なんだと思えば、なんだか少し楽になりはしないだろうか?

私はこんなことで悩んでいるが、あの人はどんなことで悩んでいるだろうかと思いやる余裕も出る。

私はこれができなくて悩んでいるが、これならできる、あなたの力になれる!とわかれば、なんだか力が湧いてくる。

そんな特別な力でなくても、おどけて見せたり、自虐的なギャグで笑わせてあげたりするだけでも力を与えることができる。

持ちネタがなければ、自分の悩みを打ち明けるだけでも、相手の悲しみを薄めてあげることはできると思う。

そのとき「非」は逆転し、お互いに向き合い、「悲しみ」は消えていくのではないだろうか。

なんだ、それって負け犬の傷のなめあいじゃないか!という考えもあると思う。

自己啓発の本などを読むと、居酒屋で上司の愚痴や女房の悪口なんかで盛り上がる連中と付き合ってはいけないと書かれている。

そんなレベルの低い連中とつきあっていたら、あなたの運気も下がる。

そんな時間があるのなら、資格の勉強をしたり、健康のためにジムに通ったりして自分の成長のために時間を使うべきだとも書かれている。

しかし、その努力の甲斐があって、出世し、多くの人間を使うようになるとどうだろう?

部下の気持ちなどお構いなし。

こっちは一生懸命やっているのに、部下が付いてこないと嘆くはめにならないだろうか?

できそこないの部下どもを持って、自分はなんて不幸なんだろうと「悲しく」ならないだろうか?

「自分だけが辛い」と思うのは、部下も同じだということに気づかない。

そのとき、辛いのは君たちだけじゃない、おれだって・・・・というふうに自分の悩み苦しみを打ち明けられれば、部下も理解しついてくる。

しかし、上司も部下もお互いに背を向け合っていれば、お互いに理解できず、悲しい心のまま離れてしまう。

その結果が左遷という場合も・・・・。

自分の悲しみにもがき苦しむのではなく、同じような悲しみを持っている人を救うにはどうすればいいかを考えること。

こうすると悲しさのために滞っていた心が動き出す。

腐っていた水が流れ出す。

やがて水は川から海に流れ出し、多くの生き物を養う。

これが「悲しみ」の効用だと思う。

これが東洋医学的な自己啓発だと思う。