人間は意思を持った水
最近、腰痛の患者さんの中で膀胱経の力が落ちている人が多い。
膀胱経に関係する筋肉は脊柱起立筋と脛骨筋。
脊柱起立筋は背骨の両脇に筋肉群として存在し、背骨を起こす。
脛骨筋は、すねの脇に着いていて歩くときに足首を持ち上げる。
これらの筋肉が弱いと背中と腰が丸くなり、歩くときに何もないところでつまずいてしまう。
あと手足が冷えたり、ふとももの裏からふくらはぎにかけて痺れが出る場合もある。
膀胱は冷えに弱いので、頻尿の問題もあるかもしれない。
これを改善するには、ツボを刺激して筋肉のバランスを整え、骨格を矯正してゆがみをとる。
しかし、これだけでは改善しない場合もある。
それはメンタルの問題。
膀胱経の問題がある人は、不安や恐れを抱えている。
多くの場合、その原因は周りからの評価を心配している。
こうしたら、どう思われるだろう?
こうなったら、世間ではどうみられるだろう?
自分は、どんなふうに思われているんだろう?
そう思われないためには、どうすればいいんだろう?
人生、生きていくためには、他人の評価を気にしないわけにはいかない。
しかし、あまりにも気にし過ぎて、ほんとうに自分が何が好きで、何が嫌いで、何がしたいのか?どうありたいのか?がおろそかにされている。
膀胱経は東洋医学の五行説では「水」に属している。
水はその場その場でいろいろな形になる。
四角いコップに入れば四角く、丸い金魚鉢にはいれば丸く、せき止められれば溜まり、止められなければ流れる。
しかし、その本質は変わることはない。
どんなにまわりに合わせても、水は水であるということに変わりはない。
水の本質に変化はない。
水はまわりの色を移すが、それは、見る人がそれぞれの位置から見るから、ある人には青に、ある人には緑に、ある人には茶色に見える。
そして、それを見て、ある人は美しいと言い、ある人は汚いと言い、ある人は怖いと思い、ある人は冷たそうだと思い、ある人は癒されると思う。
水が、まわりの人たちにどうしても青に見せたい、見てもらわないと困るなどどと思ったら、それはもはや水ではない。
水としての本質を失ってしまう。
この世に存在する以上、周りの人たちにとっては、あなたは何者かでなければならない。
ある人にとっては優しい人、ある人にとっては優柔不断な人、ある人にとってはケチなひと、ある人にとっては邪魔な人かもしれない。
それは、あたかも水が周りの風景を映していることと同じ。
周りに何を映してもらいたい、何を映さないでもらいたいと思い、それをコントロールしようとするのは、もはや水ではない。
水ではなくなる。
すなわち、あなたがあなたでなくなる。
筋肉で言えば、自分の中心である背骨を支える脊柱起立筋にエネルギーを送らずに、丸まった背中で相手の顔いろを伺い、
自分の道を踏み出すためにしっかりと足首を持ち上げる脛骨筋にエネルギ―を送らずに、人の後ろばかりついて行こうとしてつまずく姿となる。
水にも含有成分という物がある。
澄んでいる水の中にも、自然界に存在している以上、純粋ということはない。
何を取り入れたいのか?どうありたいのか?どこへ流れたいのか?どこででとどまりたいのか?
どういう水でありたいのか?
当然水は意思を持たない。
しかし、人間は意思を持った水のようなものだと先人たちは考えた。
高いところから低いところに流れる。
せき止められれば留まるが、やがてはあふれ出し、また流れていく。
ためられたままなら腐り、流れ続ければ澄んでいく。
人間も同じ。
自分の行きたいところには行きやすいが、行きたくないところには行きにくい。
ずっと考え心配し続ければ、気持ちが腐り、動き出せば気持ちも晴れていく。
人間は、水の本質を持ちながら生きていく生き物だ。
その本質に逆らえば、筋肉も骨格も神経も非常事態のアラームを発し続ける。
それが痛みと痺れだ。
長引く腰痛苦しむあなた。
自分がどうありたいか?本当はどうしたいのか?
まわりを気にし過ぎて自分を見失ってはいないだろうか?