上杉謙信と毘沙門天
上杉謙信といえば、毘沙門天を信仰していたことが有名である。
彼は、自らを「毘沙門天の化身だ」と信じていた。
ということは、毘沙門天を奉っていたのではなく、自分が毘沙門天なんだから、自分を奉っていたということになる。
彼にとって戦(いくさ)は、侵略ではなく、救出だ。
悪人の武将どもに支配された領民を救いだすための正義の行為なのだ。
正義を執行して悪を懲らしめる。
まさに毘沙門天の働きによるものであった。
自らの力を誇示し、多くの人々を支配しようとする戦(いくさ)と、領民を悪の支配から救い出そうとする戦では、全く意味が違ってくる。
一国の主たるもの野心満々で、天下統一まで目指す。
織田信長や豊臣秀吉がそうだ。
その対極にいるのが謙信だ。
混沌とした戦国乱世で、謙信だけが正義のために戦い続けた。
私は、彼のそういうすがすがしさが好きだ。
もちろん、彼には戦の才能があり、その実力の裏付けがなければできないことだ。
ところで話はかわるが、神社の御神体の多くは鏡だ。
拝めば自分の顔が映る。
これはどういう意味だろうか?
私は、神は自分の外にあるのではなく、自分の中にあるのだという教えだと思う。
その自分の中には、毘沙門天がいて、不動明王や、恵比寿様がいる。
神々のいろんな名前は、自分のエネルギーの形につけられたものだと思う。
そう意味では、謙信は自分の中の毘沙門天のエネルギーを呼び出すために、毘沙門天像の前で祈り、それから出陣したのだと思う。
だから、自らを「毘沙門天の化身」と名乗った。
毘沙門天のご加護を願ったわけではない。
上杉謙信+毘沙門天ではなく、上杉謙信=毘沙門天だ。
極論だと言われるかもしれないが、私は、そう信じている。

