「竜馬が行く」を読んで人生が前向きになった時期があった。
前向きな内容の小説を読むと、なぜか自分の人生も上手くいくような感じがするのはなぜか?
昔からこの感じはあった。
私が若い時に読んだ司馬遼太郎先生の「竜馬が行く」を読んでいた時に特にそう思った。
私と坂本龍馬の性格は、おそらく全然違う。
だれかが坂本龍馬の性格を「西郷隆盛を抜け目なくしたような性格」と言ったそうだが、私もそう思う。
考えていることがおおざっぱでスケールでか大きい。
しかし、その反面、ビジネスマンとしての知恵もしっかり持っていて、損得勘定でまわりを動かす。
私の性格としては、おおざっぱなところは似ているが、自分の内面や人の内面に興味があり、スケールが大きいというより、そこはかとなくはっきりしない。
それにビジネスマンとしての知恵は働かず、まわりを動かすのが苦手で、損得勘定がうまくできない。
だから、龍馬に憧れてしまうのかもしれない。
「竜馬が行く」・・・・この本は結構長編だ。
何日もかけて読んでいるうちに、私が龍馬に感化されてくる。
ちょうど、やくざ映画を見た後、映画館を出るときに歩き方が主人公のやくざっぽくなるのと似ている。
映画なら、その歩き方は数日で消える。
長編小説だと読んでいる期間がながいので、私が龍馬っぽくなっている時間も長くなる。
歩き方もゆったりのんびり歩く。
ひとりごとで「何々だぜよ」とか言ったりして・・・・・。
自分の目の前のことより、日本や世界の行く末なんかを考えたりする。
眼を細めて遠くを見たり、わざと優し気な笑顔を作ったりする。
龍馬の笑顔は、人の心に染み入るような笑顔だったらしい。
いつもは、目の前のことをちまちま考えて悩みながら日々を送っていたが、この小説を読んでいる間は、気持ちが大きくなってしまい、なんだか人生も上手くいっているような気がした。
冷静に考えれば、人生、上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。
上手く行ったあとは、上手くいかないことが待っていて、上手くいかないことの次は、上手くいくことが待っている。
龍馬的に考えれば、以下のようになる。
上手くいかなかったのは、上手くいくための布石だ。
上手くいったのは、上手くいかなかったときの積み重ねが功を奏したと考える。
結局上手くいくのだから龍馬にしてみれば、何事も「なんちゃ~ないぜよ」なのだ。
逆に普段の私はいつもこう考える。
上手くいかなかったのは、自分の落ち度だ。
上手くいったのは運が良かったからだ。
こんなネガティブな私なのに、「竜馬が行く」を読んでいる間は、何事も「なんちゃ~ない」と思えてしまう。
自然とものごとが上手くいっているような感じになる。
そのかわり、読み終わってしまうと、やはり龍馬のようには生きられないと、もとのネガティブに戻ってしまう。
これがずっと龍馬のふりをしていたら、どうだろう?
そのためには、いつも「竜馬が行く」を読んでいなければならない。
正直、飽きてくる。
新鮮さがない。
こうなると読んでも「なんちゃ~ない」と思えなくなってくる。
しかし、逆に言えば、いつまでも龍馬のふりができれば、ネガティブな私を消して、楽天的に人生を生きていけるのかもしれない。
では、どうすれば、いつまでも龍馬のふりができるのだろうか?
それは、今のところわからない。
それがわかれば、人は思うように自分の人生を変えることができる。
「ふり」をすることの効用と仕組みをこれからも考えていきたいと思う。