「鏡の法則」について考えてみた。
世の中には「鏡の法則」というものがある。
この「鏡の法則」を使えば、富を得て豊かになれると言う。
この場合の「鏡」とは何か?
他人は自分を映す鏡。
他人の悪いところは自分にもあり、良いところも自分にはあるという。
しかし、それって取り立てて言うようなことではない。
当たり前だと思う。
人間である以上、色々な要素がランダムに存在している。
ある一定の傾向はあるにせよ、多かれ少なかれ、他人の悪いところ、良いところはだれでも持っている。
この言葉をとりたてて言う意味は何か?
人のふり見て我がふりなおせ。
他山の石。
おおむねそういう意味を言いたいのだと思う。
しかし、「鏡の法則」はこう教える。
自分と他人は写し鏡のような存在だ。
鏡に写った相手に向かって、「〇〇をくれ!」と言えば、相手もこちらに「〇〇をくれ!」と言う。
逆に「〇〇をあげる!」と言えば、相手はもこちらに「〇〇をあげる!」と言う。
こんなじくみになっている。
たとえば、お金が欲しいとする。
だれかにお金をくれといって、素直にくれる人はいない。
相手は利息をつけてあとで返してくれという。
相手もお金は欲しい。
だから利息をつける。
利息を払うとさらにお金が少なくなるので、またお金が欲しいと言う。
相手は、それならまた利息をよこせと言う。
こちらはひたすらお金が欲しいと言い続け、相手は利息が欲しいと言い続ける。
延々とお互いに「お金をくれ!」と言い続け、泥沼にはまっていく。
逆に相手にお金をあげるといえば、相手は、その見返りとしてなにかをあげたいと思う。
100円あげるからジュースでも買ってといえば、友達ならこんどお返しをしなければと思うだろう。
友達は100円がなくて、ジュースを買うお金が欲しいと思っていれば、こちらの100円あげるという申し出は断らない。
しかし、友達だからこそ、お返しはしたいと思う。
これって、こちらの「あげる」が鏡に写って相手も「あげる」となっているということ。
それじゃ、プラスマイナスゼロで豊かにはなっていかないのではないか。
そんな声が聞こえそうだが、実はそうではない。
こちらのあげたものは、あげたもの+善意というものがついている。
だから、返って来た時はただ返ってくるのではなく、善意にたいする報酬もつれて帰ってくる。
その善意に対するお返しは、120円かもしれないし、120円分のお菓子かもしれない。
いや、そのとき本当に困っていたら、余裕ができた時1,000円相当のものが返ってくるかもしれない。
困っていたら助けたい!
この善意は受け取る相手の気持ちによって大化けして返ってくることもある。
返してもらったほうは、また相手が困っていたら助けて「あげたい」と思う。
相手は、そのたびに善意に報いて「あげたい」と思う。
この応酬で、やりとりの中身が雪だるま式に大きくなっていく。
相手が「ほしい」と言っていれば、こちらは「あげる」と言う。
まず、ここから始める。
ここが大事だと思う。
ここから、「あげる」に対して「あげる」が反射して写る。
お互いが鏡になる。
これが「鏡の法則」だと思う。
いつまでたってもこちらが「ほしい」と言い続ければ、相手はあなたを「もっとほしい」、つまりもっと足りない状態に追い込んでいく。
これも「鏡の法則」だ。
だからといって計算ずくで、これだけやって「あげた」のだから、これくらい返してもらうのが当然!と期待していると、相手は、あなたがもっと足りなくなるように仕向けてくる。
期待している時点で、あなたの「あげる」は、見返りが「ほしい」になっているのだから。