鬼太郎は、ねずみ男を友達だと思っている。
以前から不思議に思っていたことがある。
ゲゲゲの鬼太郎とねずみ男の関係だ。
いつもねずみ男は、悪だくみをする。
結果、妖怪があばれて大変なことになる。
そしていつも尻ぬぐいをするのは鬼太郎だ。
鬼太郎がねずみ男にだまされて殺されそうになることもある。
しかし、鬼太郎はいつもねずみ男を見捨てない。
鬼太郎が優しい性格だからということだろうか?
普通、あれだけ迷惑をかけられれば、絶交してもよさそうなものだ。
ねずみ男が、「鬼太郎、友達じゃないか」と言われても、「お前なんか友達じゃない」とは言わない。
鬼太郎もねずみ男を友達だと思っている。
ねずみ男の素性はよくわからないが、100%妖怪というわけではなさそうだ。
とても人間くさいし、富や名声に執着しているところなど、人間に近いのかもしれない。
それにねずみ男が妖力を使ったところを見たことがない。
ひょっとしてねずみ男は人間と妖怪にハーフなのかもしれない。
鬼太郎もそうだと記憶している。
だとすれば、同じハーフ同志、仲間意識があるのかもしれない。
鬼太郎は、善人だ。
妖怪のハーフなので、善人という言い方はおかしいのかもしれないが、わかりやすく言うとそうだ。
人間が妖怪に憑りつかれたり殺されそうになったとき、妖怪と戦い助ける。
しかし、ねずみ男にに騙されたはいえ、欲につられて妖怪を怒らせた人間に対して思うところはあると思う。
妖怪だって好き好んで戦いたくはない。
そうしないと、自分の存在が危うくなるから、人間を襲い、鬼太郎と戦うのだ。
その背景には環境破壊だったり、競争社会や資本主義社会のひずみなどがある。
にもかかわらず、妖怪を退治しなければならない。
その心情の中に、人間に対する怒りがあっても不思議ではない。
人間の性とか業に悲しさも感じているかもしれない。
妖怪と戦っているとき、心の中では「本当は悪いのは人間で、君は悪くないのに・・・」とつぶやいているかもしれない。
ねずみ男だって、人間というものに怒りや悲しみを感じていて、どうせこいつら何を言ってもわからないから、痛い目をみせて思い知らせてやろうと思っているかもしれない。
一見、自分の利益のためだけに動いているようだが、言葉の端々にそういうものを感じる。
だから、鬼太郎はねずみ男をと友達だと思っているのかもしれない。
神戸女学院大学名誉教授の内田 樹先生が著書「ひとりでは生きられないのも芸のうち」のなかでこんなことを書かれている。
「おのれの内なる他者と共生することのできる能力、おそらくそれが隣人を愛する能力につながっていくのである。」
「自分自身を愛するということは、自分自身の中に存在する『不快な人格要素』となんとか折り合って暮らしていくことである。」
内田先生の言葉を借りれば、鬼太郎の「内なる他者」「不快な人格要素」はねずみ男であり、鬼太郎はねずみ男を愛すべき人物ととらえている。
なぜなら、カンタンに言えば、「ぼくもそういうところあるよな」と思っていて、「あいつばかり責めるのは違う」と思っているからだ。
だから、ねずみ男がやらかしても「しかたのないやつだなぁ」と言いながら後始末をしている。
鬼太郎は自分を愛するがゆえに、ねずみ男も友達なのだ。
そうでなければ、とっくに指鉄砲でねずみ男をやっつけているはずだ。
そんな鬼太郎だからこそ、猫娘も砂かけばばあもこなきじじいもついてくるのだ。
逆を言えば、自分を好きになれない人は、人望がないとも言える。
自分の嫌いなところを排除するのではなく、共存していく。
自分はこうありたいなんてカッコつけても、自分の中にはいいところも悪いところもゴチャゴチャに存在しているのだから、それを丸ごと認めること。
そうすれば、まわりもあなたを認めて、友達になってくれるのではないだろうか。
悪い奴だからといって指鉄砲で排除する。
孤独な人というのは、指鉄砲ばかり打ってきた人。
時代は、そういう人たちを増やしつつあると思う。