「縁起」は、なぜ担ぐのか?
「縁起を担ぐ」というと、みなさんはどんなことを連想するだろうか?
時代劇に出てくる、あの、出かける前に後ろから火打石でカチカチッ!と火花を散らす場面。
大相撲で、連戦連勝の力士が「自分、いちおう縁起を担いでヒゲ、剃らないでいるっす」とか無精ひげでインタビュー受けてる場面。
あるいは、朝出かけるときに右足から玄関を出る場面。
そんなところだろうか?
いづれにしても、以前、ある特定の動作をしたり、特定の習慣とか、特別な道具を使うとかしたら、いいことがあったので、いつもそれをしていればいいことがあるに違いない!あるいは、昔の言い伝えだから、何か御利益があるにちがいないということで続けている人もいるだろう。
まあ、なんとなくそんな意味というのはわかる。
わかるが、この「縁起を担ぐ」の「担ぐ」になにかひっかかりを感じる。
なぜ、「担ぐ」なのだろう。
「縁起を担ぐ」ために行うことは、「担ぐ」という動作が入っていない。
やっていることは、ちっとも担いでいないのに、なんで担ぐというのか?
おおいに悩むところである。
まず、そもそも「縁起」とは何か?
「縁」「えにし」とは、ネットで調べると主に「人と人との関係を作るきっかけ」「そのようになるめぐりあわせ」などと書かれている。
それを踏まえて意味を解釈すれば、「縁起」とは「人と人との関係を作るきっかけの起こり」という意味か。
しかし、勝負ごとにおいての「縁起」には、少し無理のある解釈と思う。
その場合は、「自分が勝つ条件のめぐりあわせを作るためのきっかけ」と解釈すると、意味が通じるし、すこしミステリアスな雰囲気も醸し出す。
しかし、それを担ぐとなると、「自分が勝つ条件のめぐりあわせを作るためのきっかけを担ぐ」ということになる。
どうも「きっかけ」という「小さなこと」という名詞と、「担ぐ」という「大きなもの」を動かすという動詞を組み合わせると、意味がわからなくなる。
これはどうしたらいいのか?
今度は「縁起」だけではなく、「縁起を担ぐ」というふうにつなげた言葉で調べてみる。
日常のささいなことに対して、善い前兆ではないか、悪い前兆ではないかと、いちいち気にすること。
必要以上に縁起にとらわれること。
今度は前兆と言う言葉が出てきたが、ようは「きざし」である。
「きっかけ」も「きざし」も同じではないが、小さな出来事という意味では共通している。
それを大きなこと、たいそうなことと感じて、威勢よく担ぐ。
いわば、「そんなおおげさな~」という呆れた思いが込められた言葉なのだ。
小さなきっかけは、すばらしい未来につながると思う。
小さなめぐりあわせが、将来の悪いことにつながることもある。
どっちにしても、吉凶はわからないが、未来につながるような、小さなめぐりあわせやきっかけは、担がなければならないほど重い意味を持つ。
それはあまりにも重いので、担ぐしかない。
しかし、人生、万事、塞翁が馬。
吉は凶となり、凶は吉となる。
そういううねりの中で進んでいく。
生まれる前から吉凶のうねりが始まっていることを考えれば、人生の途中から縁を変えるなんてことはできないのではないか?
いくら縁起を担いでも・・・・。
つまり、始めから出会う人、起きることがらは決まっていて、決まっていることを知らないから、自分の未来は自分で決めたいと思うし、縁起を担ぎたくなるのである。
しかし、縁起を担いでもなかなか思い通りにはいかない。
いや、潜在意識を書き換えることによって・・・・とか、未来を細かいところまでイメージして・・・・なんて言われて未来が思い通りに変わったことがあるだろうか?
実際には、潜在意識を書き換えることも、未来を細かくイメージすることもかなり難しい。
それを少なくとも3か月続けてくださいとか言われても、3日で挫折する。
いや、もっと単純に簡単なことを繰り返せばできるかも・・・・。
どんな単純な事でも、すぐ結果がでなければ、やはり3日でやめてしまう。
逆に言えば、すぐ結果が出ることがわかれば、だれだって続けたいと思う。
これをすれば、こんないいことがある!とわかれば、だれだって毎日それを繰り返す。
たとえ、それをやった日にいいことが無くても、一週間以内にいいことがあれば、それもまた続ける。
しかし、それも待って10日くらいだろう。
一か月以内とはっきりわかれば、それもまあなんとか。
しかし2ケ月以内と言われると、続くかどうか微妙だ。
3ケ月以内なんて言われると、もう、続けられない人がほとんどだと思う。
それに毎日縁起を担いだら、いいことが三日後に起きるだの、一週間後に起きるだの、そんな期間がきまっていることなど、あるだろうか?
あなたの今までの人生で、あっただろうか?
私は「ない!」とはっきり断言できる。
けっきょく、昔からの言い伝えだから、偉い人が言っていたから、という理由で縁起担ぎをしても、続けられない人が多い。
だから、いろんな人がいろんなことを言うし、もっと縁起のよくなる方法はないかと人々は探す。
縁起を探し出して担いではおろす。
そんなことしている間にへとへとになってきて、もうどうでもいいやと思っていると、いいことが起きたりする。
それは縁起のいいことをしたから起きたのではなく、縁起のいいことをやめたから起きたのではないだろうか?
あるいは、縁起を担ぐ、担がないにかかわらず起きたのではないか。
だったら、もうそんなもの探さないで、身軽になって動けばいい。
結局、縁起を担ぐ、担がないに関係なく、起きることは起きるし、起きないことは起きない。
私はそんなふうに思っている。