【公式】いしづき接骨院|新潟県見附市の接骨院

見附初!腰痛の痛みを解消するための接骨院『いしづき接骨院』

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無為自然とは何か?

「無為自然」という言葉をご存じだろうか?

「老子道徳経」という本に出てくる言葉だ。

直訳すれば、何もしないで自然でいること。

何もしないで自然でいれば、万事うまくいくんだよという教えだ。

しかし、困ったことが起きた時、トラブルに見舞われてどうしようもなくなった時、「何もしないでいいよ」と言われたらどうだろうか?

普通は、何もしないでいられないだろう。何か手を打たなければ、大変なことになると思うだろう。

そういう意味では、人は「無為自然」になど生きられない。

そんな無責任な教えには従えない。

では、なぜこんな教えが何百年もの間伝えられてきているのだろうか?

 

そもそも「無為」とは何か?

「為」が無いと書くのだから、まず「為」の意味は何かを調べよう。

「為」は「ため」「い」と読む。

意味は「~する」「作る」「なる」「いつわる」。

これに「無」=「ない」をあてはめてみよう。

「~しない」「作らない」「いつわらない」となる。

何を「しない」のか?何を「作らない」のか?何を「いつわらない」のか?

「老子道徳経」は人の生き方を説く書なので、この場合は「自分を」ということになる。

自分をしない・自分を作らない・自分をいつわらないというふうになると、なんだかわかりやすい。

この三つについて少し考えてみたいと思う。

 

まず、「自分をしない」。

これは変な言葉であるが、考えようによっては意味深い。

自分とは何か?と問えば、老子なら「自分なんてものは固定概念にすぎない」と答えるだろう。

いろいろな場面で、その都度その都度、自分は変わる。

いかに自分はまじめであると思っていても、切羽詰まればずるいこともするし、だますこともする。

自分は明るい性格だと思っていても、トラブルにみまわれて悩みが多くなると、暗い性格に変わってしまう。

自分というものは流動的なもので、自分がこうありたいと思っても、状況がそれを許さないことはいくらでもある。

したがって「自分をしない」ということは、「自分とはこういう人間だ」という思い込みや、「自分はこうありたい」などという固定した考え方はやめろということだと思う。

 

次に「自分を作らない」。

自己啓発本などを読むと、「思い通りの自分になる」といった言葉を多く見る。

これは「なりたい自分を作ることができる」という意味だと思う。

お金もちの自分、モテモテの自分、何不自由なく暮らすセレブ、地位や名誉を勝ち取る成功者、そんな夢物語にあこがれて、いろいろなメゾッドを試してみる。

それで、実際になりたい自分になれただろうか?

多くの人はなれていないと思う。

なぜなら、こういった類の本は数多くあり、瞑想、呪文、アファーメーション、呼吸法、イメージ法などのメソッドも千差万別だ。

本当にそんなことができるなら、そんなに多くの本も多くのメソッドも必要ない。

それを読んで実践しても上手くいかないから、次から次へと本を漁り、セミナーに参加して、なんとか理想の自分を実現したいと思うのだ。

 

最後に「自分をいつわらない」。

理想の自分を目指すということは、現実の自分が気に入らないからだ。

理想の自分は明るくて社交的で、仕事もバリバリできる。

しかし、現実は暗くて心配症で、仕事も失敗ばかりしている。

だから自分を変えたい。

こういう人は多いと思う。

しかし、現実の自分とは違う理想の自分になったとき、それは本当の自分と言えるだろうか?

まわりから「明るい性格だね」とか「社交的だね」とか「仕事ができる人だね」とか言われるたびに、「本当の自分はそうじゃない」と思うのではないか。

本当の自分をいつわって理想の自分を演じていることになりはしないか?

こうなると「本当の自分」と「理想の自分」が自分の中で葛藤し、精神のバランスを崩すことになる。

バーン・アウト症候群。

理想の自分を維持するために燃え尽きて、何もやる気がなくなってしまう。

死を選ぶ人もいる。

上記の三つをまとめると、「無為」とは、

 

① 自分はこういう人間だと決めつけないこと。

② 自分を作り替えようなどと思わないこと。

③ 自分を否定しないこと。

 

さらにまとめると「あるがままの自分でいる」ということ。

「無為」とは、「あるがままの自分でいること」だと解釈できると思う。

けして何もしないということではない。

 

さあ、次は「自然」という言葉を解釈していこう。

「自」は「おのずから」「みずから」と読む。

「おのずから」と読めば、何かしようと思わなくても、自然とそうなるというニュアンスになる。

「みづから」と読めば、自分で率先して、積極的に、という意味にもとれる。

「自」一つの漢字で、正反対の意味を持つ。

しかし、この場合は、「おのずから」と読んだほうがしっくりくる。

なぜなら、「自然」という言葉の前に「無為」とあるからだ。

「無為」とは、前出のとおり「あるがままの自分でいること」であった。

その次に続く言葉は、「自分から率先して」では意味が通じにくい。

それよりも、「あるがままの自分でいて、何もしよう思わなくても自然にそうなる」と解釈したほうが自然だ。

 

「然」は「そうなっている」「そのとおり」、あるいは名詞のあとについて、その名詞の様子を示す意味。

たとえば、「旧態然」といえば、「依然として古い状態のまま」という意味だし、「紳士然」と言えば、「いかにも紳士らしい状態」をいう。

したがって「自然」といえば、「何もしようとしなくてもそうなっている」という意味になる。

以上で一応結論は出た。

 

「無為自然」とは、「あるがままの自分でいれば、何もしようとしなくても自分でいられる」という意味だ。

 

でも、まだ、何か輪郭がはっきりしない結論だ。

 

一般的に「無為自然」と言えば、「自然に逆らわずに生きよ」「自然の流れに従って生きる」などと解釈している人が多い。

それに対し、上記の「あるがままの自分でいれば、何も・・・」という解釈と意味が違うように思われる。

 

ではもう少し分析してみよう。

まず、「あるがままの自分でいれば」と「何もしようとしなくても自分でいられる」の二つに分割して並べてみる。

「何もしようとしなくても自分でいられる」ということは、言い方を変えると「何もしようとしなければ、本当の自分でいられる」ということもできる。

 

なぜ、ここで「本当の」を「自分」の前に付け加えたかと言えば、前に置いてある「あるがままの自分でいれば」という言葉から、「あるがままの自分」=「本当の自分」とも言い換えることができると考えたからだ。

こうすると、「あるがままの自分でいると、本当の自分が現れる」という解釈のしかたもできる。

つまり、この「無為自然」という言葉は、同じことを二つ並べているだけだ。

なぜなら、「あるがままの自分」も「本当の自分」も意味は同じだから。

では、なぜ、同じ言葉を別々の言葉で言い表しているのか?

 

ここが漢字の面白いところだ。

 

「無為」の意味は「あるがままの自分」であるが、漢字そのものを見れば、「無」は「ない」という意味で、「為」」は「いつわり」という意味だ。

つまり、純粋に感じのみで解釈すれば、「いつわらない」という意味になる。

この意味と前出の「あるがままの自分」という意味をつなげてみると、「あるがままのいつわりのない自分」という意味になる。

そこで、「本当の自分が現れる」という言葉につなげてみよう。

「ありのままのいつわりのない自分でいれば、本当の自分が現れる。」

なんか当たり前じゃん!と言いたくなるが、少し考えてみよう。

 

次は「自然」という意味。

漢字で意味を追えば、「自然は自然」である。

自然界の「自然」、自然の法則の「自然」。

どんな畑にも放って置けば草が生える。

誰も住んでいない家には、蜘蛛の巣がはる。

水は高いところから低いところに流れる。

冬が来れば春が来る。

晴れの日があれば、雨の日もある。

なぜこういうことが起きているのかといえば、それが自然だからだ。

自然界の法則が働いているからだ。

 

どんなものも自然界の法則に逆らうことはできない。

しかし、人間は自分たちの生活のために、自然界の法則に逆らいコントロールしようとする。

だから、本当の自分を理想の自分に作りかえようなんて思うのだ。

人間の心も体も自然界の法則には逆らえない。

もし、逆らえば、病気になる。

不自然だからだ。

 

話が飛んでしまったが、まとめに入ろう。

「自然」とは、「自然界の法則」と同じ解釈する。

これも「無為自然」の解釈に取り込んでみる。

「無為自然」とは、

「あるがままの自分でいれば、自然界の法則に従った自分になる。そうすれば、身心のバランスを保つことができる」

という意味になる。

 

では、自分の身心の健康を保つためには、好き勝手、自分のやりたい放題に生きればいいのか?

そうではなく、自分の気持ちを偽らないで受け入れるということ。否定せず、ごまかそうとしない。悲しいことであろうと、楽しいことであろうと、それを自分の中で嘘偽りなくしっかりと感じ取ること。

自分の外にその感情のまま表して行動に移してしまえば、社会では生きていけないだろう。

 

行動のことではなく、感情のことを言っている。

 

こんなこと思っちゃいけない。

そんなふうに考えるべきではない。

こんな感情になったらいけない。

それらは、全部、不自然な思いだ。

不安な自分も、怒る自分も、悲しい自分も、うれしい自分も、浮かれる自分も、全部自然の流れに乗って湧き上がってきたものであり、流れて循環していくものだ。

それを流れていない、固定されたものだと思うところから心の自然が失われる。

自然とは移ろって流れていくもの。

どれをとっても止まっているものはない。

 

感情も環境も肉体も、どれひとつとっても移ろい流れていく。

 

それをとどまっているものだと解釈し、自分の都合のいいようにとどめておこうとするから、壊れてしまう。

そんなことをするのは、この自然界で人間だけだ。

 

ここでまた、さらに「無為自然」を解釈すれば、

 

「小賢しいことをしなければうまく生きていくことができるのに、人間とは愚かな生き物よのう」

 

という意味になる。

 

これが老子の一番言いたかったことかもしれない。