腰痛と「列子」の教え
中国の古い書物に「列子」というものがあります。
その中に、こんなお話が出てきます。
燕の国に生まれて楚の国で育った男がいた。
年老いて、ふるさとの燕に帰る途中、晋の国にさしかかった。
この時、連れの男がいたずら心を起こして、「爺さん、燕の国に着いた」と言った。
そして、道端のやしろを指さして言った。「おまえさんの村の鎮守さまだよ」
老人の口からおおきなため息が漏れた。
男はまた、ある民家を指さして言った。「これがおまえさんの生まれた家だ」
老人の目から涙があふれだした。
さらにお墓を指さして、「これがご先祖様の墓だぞ」と言った。
老人は、こらえきれずに大声で泣き出した。
連れの男は腹を抱えて笑った。
「こんなにうまくひっかかるとは思わなかった。おまえさん、ここはまだ晋の国だよ。」
老人は、だまされたのが恥ずかしくなって、顔を真っ赤にした。
その後、老人はようやくふるさとの燕にたどり着いた。
しかし、ふるさとを見、やしろを見、生家を見ても、先祖の墓を見ても、悲しみはいっこうに湧いてこなかった。
この老人は、ふるさとを見て、やしろを見て、生家を見て、感情が強く動きました。
感情が強く動いただけではなく、大きなため息が出たり、涙があふれ出たり、顔が真っ赤になったりしました。
しかし、真実は違っていて、真実と違うものを見て体と気持ちが反応してしまっています。
すると、今度は真実を見ても、気持ちと体が反応しなくなってしまった。
これは、自分が騙されて恥ずかしいという気持ちが強くて、感動することができなかったということでしょうか。
この話から言えるのは、人間は真実と違うものを見ても、自分が真実だと思うと、そこに感情も体も真実を体験したと同じ反応を示す
ということです。そして、次にだまされたことがわかって、真実を見せられても、それが本当のことなのか?と疑いが起き、自分の感情も、無反応になってしまう。
つまり、自分が思っていた真実が、真実ではないということがわかると、真実を見せられても疑いが生じ、感情も体も反応しなくなるということです。
人間ならだれでも、同じようなことが起きます。
腰痛も同じです。
過去に腰痛になったときの真実、別に重い物を持ったわけでもないのに、少し捻ったくらいで激痛になっていった。
このときの感情、このとき自分のまわりに起きていたこと、この時の天気、環境など、自分の体は記憶しています。
忙しくて連日残業していた。
上司は口うるさく、急がせた。
友達と会って飲み会をする約束も守れない。
この仕事って、本当にやりたい仕事なんだろうか?
休日出勤で、自分の趣味も楽しめない。
おれは、こんなに頑張っているのに、まだ働けというのか!
不満と怒りが充満している。
このときの感情、状況の中で腰痛が出たならば、このときの感情、状況もセットで記憶しています。
そして、似たような状況になる度に腰痛を出します。
それも、ほんの少しの動きで、だんだん激痛になってきます。
しかも、この忙しさを乗り切ったところで昇進もしなければ給料もあがらないということになれば、この腰痛は長く続くことになります。
しかし、この時の努力が報われて、昇進もして給料も上がれば、もう、こんな場面では腰痛は出なくなります。
なぜなら、それは「ただ忙しくて疲れるだけの仕事」ではなく、「忙しくて疲れるが、満足できる報酬を得るための仕事」であるというふうに、その人にとっての真実が変わるからです。
真実が変われば、そこに付随していた怒りや不満という感情も、生じなくなります。
その感情とセットになっていた腰痛も無くなります。
真実の解釈が変われば、人間はそのときの感情を変えてしまうことができる。
そのときの感情が変わってしまえば、そのときの体の反応も成立しなくなります。
つまり、腰痛が発生しなくなります。
その忙しい状況では、腰痛が発生しなくなるということです。
この「列子」の教えは、腰痛を改善するための教えにもなっています。