腰痛を「列子」から学ぶ。
中国の古い書物に「列子」というものがあります。
その書物にこう書かれています。
ある人が河辺に住んでいました。
泳ぎがすごく上手くて、船で人々を乗せて渡す仕事をしていました。
多くの利用客がいて、百人もの人を雇っていました。
そこで、その人に泳ぎを習って、自分も儲けたいと思う人たちが次から次へと集まりました。
しかし、その人たちの半分は溺れて死んでしまい、半分は泳ぎを身につけました。
「列子」という書物は、このような物語がいくつも書いてあります。
その物語は、なんとも不可解なものが多く、詳しくその解説もしていません。
読者は、この物語から、いろいろな教えを導き出し、学ぶしかありません。
私はこの物語を読んでこのように解釈しました。
目的を達成したいと思うとき、いくつかのやりかたがあります。
その行く先には、いくつかの分かれ道、すなわち手段があります。
しかし、人は分かれ道を選び進んでいくうちに本来の目的を見失ってしまいます。
泳ぎが上手く、河の渡しで成功しているこの人は、はたして泳ぎが上手いから商売が成功したのでしょうか?
実際には、泳いで商売をしていたわけではなく、船を使って商売をしていました。
もちろん、船を操るうえで危険はつきものですから、泳ぎが上手ければ不測の事態には備えられる。
つまり、利用客は安心して利用できます。
しかし、いくら泳ぎが上手く安心していられても、船の操り方が上手くなければ利用客は増えないでしょう。
集まってきた多くの人たち、その半分は、その目的を見失ってしまい、泳ぎ方の上手さを競っていった結果、命を失ってしまったのかもしれません。
本来なら船の巧みな操り方、いざというとき乗客を救えるだけの泳力があれば充分なのですが、泳ぎが上手くなることだけにこだわってしまい、危険なところで競って泳いだりして命を落としてしまった。
えてして人は、このように目的と手段が入れ替わってしまっていることに気がつきません。
腰痛もそうです。
腰が痛いとき、痛みさえなくなってしまえばいいと誰もが考えます。
当院に来られる患者さんも「めんどくさい理屈はいいから、痛みだけ取ってくれ」とおっしゃるかたもおられます。
しかし、なぜ、腰が痛くなったのかを探っていけかなければ、痛みをとる手立てを見つけることはできません。
結局は腰が痛い方が都合がいいからです。
かく言う私も腰痛になったことはあります。
よくよくその時の自分の感情や気持ちを思い出してみると、やはり腰痛になったほうが自分に利益があると、心の底では思っていました。
いやな仕事を休める。
まわりが心配してくれる。
まわりが心配してくれれば、自分はこんなにも心配されるほど価値のある人間なんだと思える。
自分は、ここまで無理をして、腰を犠牲にしてまで仕事を頑張っているんだとアピールすることができる。
腰が痛くなるほどのハードワークをこなしている自分ってすごいだろうと、自分のすごさをアピールできる。
だったら、まず、腰痛を出してまで自分の価値観を守ろうとしている自分ってどうなんだろう?と考えるのが先です。
腰痛を出してまで、達成しようとしている目的は何なのか?
その目的を達成することに対して、どんな不都合があったのか?
腰痛になる以外に、その目的を達成する手段はないのだろうか?
こんなことをクリアにしていけば、痛みに溺れ、それを取るためにドクターショッピングを繰り返し、結局は手術をして、その手術の後遺症に悩まされながら一生を終えるなどということはないと思います。